近世における戦いの主体がそれまでの刀剣から鉄砲(銃)に代わり、近接格闘戦は銃の先端に短剣を着けて展開されるようになってきた。我が国における 銃剣道の芽生えは、明治初期、フランスから伝来した西洋式銃剣術を取り入れ、 研究がなされたものである。
その後、日本独自の銃剣術として、宝蔵院流・佐分利流・疋田流・貫(管)流といった日本古来の槍術の心技に源流を置き、剣道の理論等を合わせて 研究を重ね、最も日本人の性格、体格等に適合した武道として地位の確立がなされた。また、銃の変遷に伴って展開されたもので、初めは「銃槍格闘」、 または「銃剣格闘」と呼ばれ、次いで「銃剣術」と名付けられ、さらに昭和16年、大日本銃剣道振興会が設立されたとき、「銃剣道」と改められたものである。 当時は、銃剣道も他の武道と同様、実戦武技としての域を脱することは甚だ困難な状態であった。従って、その普及対策も一応競技会が実施されていたも のの、それにも増して戦闘のための訓練に重点が置かれていた。
戦後における銃剣道は、昭和31年全日本銃剣道連盟が結成され、現代の武道として、戦前の戦技的内容を完全に払拭して、しかも古来伝統武道の真髄を継承 しつつ、全く新しい大目標にむかって競技会を主体とした近代的スポーツとして再出発したものである。従って、その修練の目標や理論、使術等については槍術や 剣道と全く同様のものであり、 現代社会人としての人間形成に資することを目指したものである。
銃剣道の修行は、たゆまない努力によって
心身を鍛練陶冶し、規律を守り、礼節を尊び、
信義を重んずる等、社会人として必要な道徳性を高め、もって
正しく、 明るく、
強く、 逞しい、
人間形成を目指して精進するものである。
公益社団法人 全日本銃剣道連盟
銃剣道の前身である銃剣術は明治建軍当時に採用するところとなったが、当時は剣術優位の中において、銃剣術の必要性を主張する勢力が胎動し、双方の真剣勝負によって銃剣術組の優勢が軍隊に銃剣術を採用するきっかけになったようである。銃剣術の採用を主張したのはフランス留学から帰国した斎藤徳明であり、剣術を主張したのが戊新戦争の官軍側で活躍した山地元治であったといわれている。
当時の各鎮台(師団)において用いられた銃剣術は、わが国古来の槍術から創意されたものが多く、明治天皇が 1880 年5月に、陸軍戸山学校にご臨幸になった際に、同校の教官・助教が銃槍術を天覧に供したものは、木銃の長さが 220 ㎝で、使用した防具は槍術用のものであり、技術は長槍の「繰り突き技」が多用されたとの記録がある。引用された槍術流派は寳藏院流のほか、佐分利流・疋田流・貫(管)流等が中心であったようである。
明治建軍当時は、わが国の軍制はフランスの制度を採り入れた関係もあり、1884 年 8 月にフランス陸軍歩兵中尉ド・ビラレーと砲兵軍曹キェールの両名を剣術教官として招聘し、フランス式の剣術教育が始められた。当時は「バイヨネット」と呼ばれていた。
ド・ビラレー中尉は「日本式剣術教育は、爾今廃止し、フランス式剣術を教育すべきこと」を当時の陸軍卿西郷従道に進言して採用するところとなり、わが国独特の銃剣術は疎んじられるところとなった。しかし、フランス剣術はスポーツ的な考え主体をなしていたものであるから、実戦的な利用価値に欠けたところがあり、地方においては定着せず、陰では古来の槍術を中心とした銃剣術・剣術が根強く行われていた。
1887 年(明治 20 年)にド・ビラレー、キェール両名が帰仏するに及んで、再びわが国の銃剣術が台頭し、1890 年、陸軍戸山学校長大久保春野はフランス式を廃止して、日本式の銃剣術を復活するところとなった。
1892 年 11 月には戸山学校体育科長の津田教修(津田一伝流の継承者)が、陸軍の剣術教範の改正にとりかかり、ここに日本本来の銃剣術が軍隊の制式科目に採用されたのである。
当時銃剣術に用いられた用語は次のようなものである。
「直 突」 銃剣の位置を替えることなく突く技
「脱 突」 少し右手を上げて剣先を下げて、剣先の交差を反対側に外して突く技
「切 突」 両手を上げ、相手の剣先の上部より突く技
「突 下」 剣先を下げて相手の下胴を突く技
「繰り突」 相手との間合いが遠い場合に、銃剣を左掌中を滑らせて突く技
「打撃・押圧」 相手の銃剣を打ち払い・除却して突きを容易にする技術
銃 剣 道 の 由 来
「隙 突」 相手が払い打った後の隙を据えた突き
「曷 突」 相手の数度の連続突きの際の空隙を突く技
「佯 突」 連続した突き技
これらが銃剣術の原点であった。
その後、1915 年(大正4年)に大幅な銃剣術教則の改正が加えられ、1925 年(大正 14 年)には大日本武徳会の独立科目として銃剣術が認められ、国民体育大会の前身的存在である、明治神宮大会には第1回大会から銃剣術として参加している。
銃剣道の名称は、1940 年(昭和 15 年)月の橿原神宮武道大会から用いられ、翌年には大日本銃剣道振興会が創設され、「術」のみでなく精神要素の修行を加味した教育的武道への普及に努めたが、1945 年の敗戦とともに銃剣道の禁止令が発せられた。
第1 銃剣道は、わが国の伝統的な武術である槍術の「突き技」を基調として、明治初期に創成され発展した武道である。
第2 銃剣道は、武士道の美風である、「誠実」「礼節」「勇気」「質実剛健」及び「克己心」等を徳目として錬磨し、社会に有為な人間の育成を目的とするものである。
第3 銃剣道は、「突く」「抜く」「打つ」「払う」「かわす」「押す」及び「足さばき」等の身体活動を通して、健康で豊かな社会生活を営むための、国民の健康・体力づくりに寄与するものである。
第4 銃剣道は、木銃を用いて相手の喉・胴等への「突き技」で競い合う競技であり、攻勢的に果敢なところに特色がある。
また、技の構成は単純で習得容易であるが、真髄を極めるには奥深いものがある。
第5 銃剣道は、稽古と試合を通じて、「知」「情」「意」のバランスのとれた心身の発達を図り、社会への適応力を育成し、心肺機能・スピード・反応力及び持久力を高めることができる。
公益社団法人 全日本銃剣道連盟
銃剣道専用の道衣に剣道と同じ袴を着用します。
銃剣道衣は、剣道の稽古着や柔道衣に比べ、袖が長く、細くなっているのが特徴です。銃剣道はお互いに相手を突く武道ですので、相手の木銃が袖から入らないように細く、長くなっています。
樫の木で作られていて、中学生以上は長さ166cm、重さ1,100グラム以上、小学生以下は133.5cm、重さ800グラム以上のものを使うように決められています。木銃の先にはタンポと呼ばれるゴムがついていて、突き技の衝撃をやわらげています。
剣道の防具と同じような『面』・『小手(左手のみ)』・『胴』・『垂』といったものに左胸を保護するために胴の下に着ける『裏布団』、胴の上に着ける『肩』そして右手につける『指袋』という用具をプラスしたものです。